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67日は端午節ですね~。

台湾では待ちに待った3連休です!

(ちまき)を食べないといけない!

 

ちまき、、?

日本では、こどもの日に小学校の給食でちまきが出てきます。

そんな風習もあり、自然と、

「こどもの日 = ちまき」と皆さん認識してると思います。

 

では、台湾では、どうして端午節の日にちまきを食べるようになったのか?

 

実はそのルーツは、中国の戦国時代まで遡ります。

今回は、ちまき文化の発祥の由来となった中国の詩人「屈原」について紹介します。

 

 

屈原とは?

 時代は中国戦国時代、

戦国の七雄と呼ばれた楚の国にて

楚の王族に遣える最高名門の公族の元に、詩人「屈原」は生まれました。

 

愛国心と正義感が強く、

詩文にも優れており、

楚内での王族からの信頼は厚く、

政治に関しては、屈原の右に出るものはいない程!

 

もともと当時の楚の国の人々は、

熱く燃えやすい性格と言われ、

屈原も同じく、情熱的な性格だったと言われています。

 

 

 

当時の状況

 紀元前260年頃は、戦国七雄と呼ばれる7つの国が領土争いに明け暮れていました。

秦、趙、魏、斉、燕、韓、そして、楚です。

 

楚は広大な領土を手にしていましたが、

それに見合う程の人口がおらず、次第に権力を失い、国の統制は衰退して行く状態にありました。

 

そんな中、秦が日に日に勢力を増し、

戦国七雄の中でも一目置かれる存在になって行きます。

 

が、今後勝ち残っていくためには、

到底自国の力のみでは太刀打ちできず、

  • 隣国の楚と同盟して秦支配下で安泰となるか (親秦派)
  • 斉と同盟することで秦に立ち向かっていくか (親斉派)

同国内でも決断を迫まれていました。

 

もちろん、愛国心の強い屈原は、斉との同盟を目指す親斉派した。

 

 

 

衰退へのシナリオ

 

楚内では、親秦派親斉派の対立が激化し、

親斉派を率いていた屈原は、当時の楚の国王 懐王に、秦を信用しないよう説得を試みました。

しかし、自分の意見を聞いてもらえず、

最終的に、新秦派が勝利し、秦と同盟を結ぶ事になりました。

 

その後、楚の懐王は、秦から婚姻の誘いを受けました。

婚姻のお誘いに大喜びしている懐王に対して、屈原は、

  • 秦を簡単に信用してはいけない!
  • 婚姻の誘いの策に乗ってはならない!!

と、懐王を説得しました。

 

しかし、またしても、屈原の努力も空しく、

懐王は疑う事なく秦へ出向き、結局幽閉される事になってしまいました。 

 

懐王がいなくなってしまった楚国内では、

これまで親秦派を率いていた屈原のライバルが楚の新たな丞相になり、

それに対立する反対派(親斉派)だった屈原はもちろん失脚し、左遷されてしまいました。

 

 

 

屈原の最期

 その後まもなく、秦によって、楚の首都が陥落

 

愛国心が人一倍強かった屈原は、楚の将来に絶望し、石を抱きかかえ、

汨羅江 (長江の支流)に身を投げ、自ら命を絶ったと言われています。

 

 

 

後世に残るちまき文化

 

楚の人々は、屈原が楚を愛した末に、自ら命を絶った事を知ります

  • 国のために身投げした屈原の身体を魚が少しでも食べないように、
  • また少しでも屈原の思いを鎮めるために

人々は笹の葉に米飯 (今日で言うちまき)を入れて、この川に投げ込むようになった、と言われてます

 

屈原が川に身投げした日(自ら命を絶った日)は、紀元前27855と言われており、

この日にちなんで、今でも旧暦の55 (2019年は67)に、ちまきを食べる習慣が残っています。

 

これが、「ちまき」の由来と言われています。

 

 

 

最後に

旧暦の5月5日ですが、日本ではそのまま「5月5日のこどもの日」に、
ちまきだけを食べる習慣が残ったのでしょう。

今となっては、由来も分からず、

旧暦の55日にちまきを食べるという習慣だけが残り、

「ちまきを食べる休日」、という単なる楽しみとなっていますが、

 

元々は、国をこよなく愛し、

絶望の末に亡くなった「屈原」という詩人の無念を晴らすためのお祈りの儀式、

という事を今一度、認識するきっかけとなればと思います。

By monioz

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